ホーム > モビリティランド50周年 > モビリティランド50年の歩み 第三章 ─ モータースポーツの再興 ─ 世界一流レベルを目指して

モータースポーツの再興にむけて、モビリティランド(以下ML)は1970年から80年代にかけ、鈴鹿サーキットにおいて次々と新たな取り組みを行った。
4輪では、フォーミュラカーレースを核とした戦略をとり、その普及に努めた。ドライバーに焦点をあてたレース開催により、日本のフォーミュラレース熱は高まり、のちのF1招致につながっていく。
2輪では、1978年に初開催、80年に世界選手権となった8耐がオートバイファンの大きな支持を得て、“真夏の祭典”として、現在まで続く伝統のイベントになっていく。
さらに1987年の世界GPロードレース、F1日本GP初開催を機に、ホテル・レストランなどのソフト・ハード両面のホスピタリティー向上をはかると共に、様々な世界選手権レースを招致・開催することで、「世界のスズカ」と称されるようになった。


3回目の開催となる1973年からは、<全日本F2000選手権 鈴鹿グレート20ドライバーズレース>として開催し、国際規格F2に準じたF2000、FJ1300とFL500クラスにより、国内フォーミュラ体系の確立を目指した。
それまでフォーミュラレースは日本では定着が難しいとされていた中、このレースの開催はのちのF1につながるフォーミュラ路線の第一歩となり、星野一義や中嶋悟といった現在、日本のモータースポーツ界を代表する名ドライバーたちを生み出すと共に、日本においてフォーミュラレースが確立する大きなきっかけとなった。



「ル・マンやボルドールのように、ヨーロッパの有力チームが参加できる国際格式の耐久レースを行えば、日本のオートバイレースの祭典になる」−このような想いが関係者の中で膨らみ、1978年<インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレース(以下8耐)>が開催された。
8耐にはさまざまな見せ場があった。午前11時30分のル・マン式スタート、世界トップライダー達の走り、ライダー交代やタイヤ交換・給油などピットワークの駆け引き、ワークス/プライベーターそれぞれのチームごとの作戦。8耐ならではのドラマに観客は酔いしれ、熱い声援をおくった。夕闇が迫り、ライトオンボードが出されると、マシンのヘッドライトが夕空に美しいコントラストを描き、見るものをいっそう高揚させた。午後7時30分のチェッカー、レース終了。表彰式では花火が8時間を走りきったすべてのライダー達を称えた。観客もライダーもチームスタッフもオフィシャル関係者も同じ興奮と感動を分かち合っていた。そこには鈴鹿で8耐に参加した全員が一体となった「祭り」が存在していた。
8耐はその後1980年から世界選手権シリーズとなり、国内最大級のオートバイイベント「真夏の祭典」として定着していく。
「世界最高峰のF1を鈴鹿で開催したい」というMLの夢と「F1を鈴鹿で観たい」というファンや関係者の気運の高まりがひとつになり、MLはF1開催にむけて動きだす。
鈴鹿サーキット国際レーシングコースは安全性の向上と世界基準にあわせた改修工事を重ねる一方、F2選手権を国際格式のF3000選手権とし、レース運営力の強化に努めた。
同時に、F1開催権をもつF1コンストラクター協会(FOCA)<注1>との度重なる交渉を続け、バーニー・エクレストン会長が1986年11月23日に鈴鹿を視察することが決定した。
視察の翌日には開催契約が締結され、25日にJAF申請、26日に記者発表と、ついに「夢がカタチ」になった。
<注1>現在、F1商業権の管理は、FOA(Formula One Administration)に委託されている
これはF1開催決定直後、鈴鹿市が発表した「国際都市づくりを目指して鈴鹿サーキットを核とした"世界の中のレーシング都市スズカ"構想」に呼応し、地元の理解・協力を得、連携態勢をより強化して初のF1日本GPを開催したいという想いからであった。


11月、待望の<F1世界選手権シリーズ フジテレビ日本グランプリ>決勝。A.セナ、A.プロスト、そして日本人初のシリーズフル参戦ドライバー中嶋悟など世界のトップドライバー26人が奏でる最高峰マシンのエギゾースト・ノートに、スタンドを埋め尽くした11万2000人は熱い声援を送った。
Hondaは2チーム4台にエンジン供給し、自国での優勝が期待されたが、勝ったのはG.ベルガーが操るフェラーリだった。しかしHondaのA.セナは2位、中嶋悟は6位入賞を果たし、この二人は、その後日本のモータースポーツ人気を牽引する象徴的な存在となっていく。



1989年には<世界プロトタイプ選手権 WSPC SUZUKA JAPAN>、1991年には<ワールドカップ カートレース イン ジャパン>、<世界選手権モトクロス スジャータ日本グランプリ>、1992年<FIA公認 ソーラーカーレース>などの開催によりモータースポーツの振興とファンの拡大を目指した。
これらの世界選手権レースは、後に、(株)紀文[現:(株)紀文食品]、富士写真フイルム(株)[現:富士フイルム(株)]、昭和シェル石油(株)、コスモ石油(株)の各社が冠協賛につき、モータースポーツがビジネスとしても拡大していく。





世界最高峰レースの開催を機に、鈴鹿サーキットは、世界に通用するライダー/ドライバーの育成を目的に、1992年、鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS)を開校した。
1992年、2輪レーシングライダー育成のためのSRS-J(ジュニア)に引き続き、4輪モータースポーツの基本となるレーシングカートのSRS-K、1995年にはフォーミュラ・ドライバー育成のSRS-Fを開校、国際レーシングコースや、国際南コースをスクールの場とし、SRS-J、SRS-Kは9才からの早期キャリアを目指す。杉本五十洋(SRS-J)・中嶋悟(SRS-K・F)両校長の下、日本のモータースポーツの第一線で活躍するライダー、ドライバーを講師にむかえたこの取り組みは、海外のロードレースで活躍する清成龍一や酒井大作、フォーミュラカーレースの頂点であるF1・INDY®で活躍する佐藤琢磨や松浦孝亮はじめ、現在も国内外で活躍する多くのライダー/ドライバーを輩出している。
1992年、2輪レーシングライダー育成のためのSRS-J(ジュニア)に引き続き、4輪モータースポーツの基本となるレーシングカートのSRS-K、1995年にはフォーミュラ・ドライバー育成のSRS-Fを開校、国際レーシングコースや、国際南コースをスクールの場とし、SRS-J、SRS-Kは9才からの早期キャリアを目指す。杉本五十洋(SRS-J)・中嶋悟(SRS-K・F)両校長の下、日本のモータースポーツの第一線で活躍するライダー、ドライバーを講師にむかえたこの取り組みは、海外のロードレースで活躍する清成龍一や酒井大作、フォーミュラカーレースの頂点であるF1・INDY®で活躍する佐藤琢磨や松浦孝亮はじめ、現在も国内外で活躍する多くのライダー/ドライバーを輩出している。