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2011年、モビリティランドは創立50周年を迎えました。

モビリティランド50年のあゆみ

第三章 ─ モータースポーツの再興 ─ 世界一流レベルを目指して

モータースポーツの再興にむけて、モビリティランド(以下ML)は1970年から80年代にかけ、鈴鹿サーキットにおいて次々と新たな取り組みを行った。
4輪では、フォーミュラカーレースを核とした戦略をとり、その普及に努めた。ドライバーに焦点をあてたレース開催により、日本のフォーミュラレース熱は高まり、のちのF1招致につながっていく。
2輪では、1978年に初開催、80年に世界選手権となった8耐がオートバイファンの大きな支持を得て、“真夏の祭典”として、現在まで続く伝統のイベントになっていく。
さらに1987年の世界GPロードレース、F1日本GP初開催を機に、ホテル・レストランなどのソフト・ハード両面のホスピタリティー向上をはかると共に、様々な世界選手権レースを招致・開催することで、「世界のスズカ」と称されるようになった。

1971年  第1回グレート20ドライバーズレース
1973年  第3回グレート20ドライバーズレース

人(ドライバー)に焦点をあてた新しいレースを

排ガス問題の中、自動車メーカー主導の時代が終わり、新しい企画に取り組む必要があった1971年、鈴鹿サーキットは<グレート20ドライバーズレース>を開催した。その名の通り国内の人気・実力ともに優れたトップドライバー20名によって争われるこのレースは、スターティングマネーを出すなど、ドライバーを招聘するという当時としては画期的な取り組みにより、大きな話題となった。
3回目の開催となる1973年からは、<全日本F2000選手権 鈴鹿グレート20ドライバーズレース>として開催し、国際規格F2に準じたF2000、FJ1300とFL500クラスにより、国内フォーミュラ体系の確立を目指した。
それまでフォーミュラレースは日本では定着が難しいとされていた中、このレースの開催はのちのF1につながるフォーミュラ路線の第一歩となり、星野一義や中嶋悟といった現在、日本のモータースポーツ界を代表する名ドライバーたちを生み出すと共に、日本においてフォーミュラレースが確立する大きなきっかけとなった。
炎天下のドラマが、ル・マン式スタートではじまる
夕暮れが訪れると、8耐にクライマックスが近づく
“勝者を称える花火”には、毎年ごとの感動がある

レースを「祭り」に変えた、「8耐」誕生

オイルショックのため、1974年以降自粛していたオートバイ耐久レースが、ファンとライダー、関係者の要望により、1977年、<全日本選手権 鈴鹿6時間耐久オートバイレース>として復活した。その前年、本格的なレース活動を休止していたHondaが、ヨーロッパ耐久選手権シリーズへの参戦を開始し、伝統と格式を誇るフランスの<ボルドール24時間耐久レース>で優勝を果たした。
「ル・マンやボルドールのように、ヨーロッパの有力チームが参加できる国際格式の耐久レースを行えば、日本のオートバイレースの祭典になる」−このような想いが関係者の中で膨らみ、1978年<インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレース(以下8耐)>が開催された。
8耐にはさまざまな見せ場があった。午前11時30分のル・マン式スタート、世界トップライダー達の走り、ライダー交代やタイヤ交換・給油などピットワークの駆け引き、ワークス/プライベーターそれぞれのチームごとの作戦。8耐ならではのドラマに観客は酔いしれ、熱い声援をおくった。夕闇が迫り、ライトオンボードが出されると、マシンのヘッドライトが夕空に美しいコントラストを描き、見るものをいっそう高揚させた。午後7時30分のチェッカー、レース終了。表彰式では花火が8時間を走りきったすべてのライダー達を称えた。観客もライダーもチームスタッフもオフィシャル関係者も同じ興奮と感動を分かち合っていた。そこには鈴鹿で8耐に参加した全員が一体となった「祭り」が存在していた。
8耐はその後1980年から世界選手権シリーズとなり、国内最大級のオートバイイベント「真夏の祭典」として定着していく。

夢をカタチに

1980年代に入ると、HondaエンジンがヨーロッパF2選手権シリーズで圧倒的 な強さを発揮する。一方、国内F2選手権シリーズにもF1を目指した気鋭の外国人ドライバーが多数参戦し、星野一義や中嶋悟らの日本人選手と激しいレースを繰り広げていた。1978年からF2選手権のテレビ中継を開始した中部日本放送(CBC)による全国10局のネット放送の定着や、モータースポーツ専門誌の新たな発刊もされ、メディアからも注目されると国内のフォーミュラ熱は日増しに高くなっていった。
「世界最高峰のF1を鈴鹿で開催したい」というMLの夢と「F1を鈴鹿で観たい」というファンや関係者の気運の高まりがひとつになり、MLはF1開催にむけて動きだす。
鈴鹿サーキット国際レーシングコースは安全性の向上と世界基準にあわせた改修工事を重ねる一方、F2選手権を国際格式のF3000選手権とし、レース運営力の強化に努めた。
同時に、F1開催権をもつF1コンストラクター協会(FOCA)<注1>との度重なる交渉を続け、バーニー・エクレストン会長が1986年11月23日に鈴鹿を視察することが決定した。
視察の翌日には開催契約が締結され、25日にJAF申請、26日に記者発表と、ついに「夢がカタチ」になった。
<注1>現在、F1商業権の管理は、FOA(Formula One Administration)に委託されている

地域密着を目指し、社名変更

1987年6月、MLは社名を(株)ホンダランドから(株)鈴鹿サーキットランドに変更し、本社(本店)も東京から、鈴鹿サーキットの地元、鈴鹿市に移転した。
これはF1開催決定直後、鈴鹿市が発表した「国際都市づくりを目指して鈴鹿サーキットを核とした"世界の中のレーシング都市スズカ"構想」に呼応し、地元の理解・協力を得、連携態勢をより強化して初のF1日本GPを開催したいという想いからであった。
1987年  鈴鹿F1伝説がはじまる
スタンドを埋めつくしたファンが声援をおくる

F1日本グランプリ、待望の開催

1987年11月の開催を前にした6月、前売り観戦券の公開抽選会が行われた。5月1日からのわずか1ヶ月間という短い募集期間に、一般販売チケット9万枚に対して、応募は約40万枚(ハガキ約25万枚)で当選倍率4.4倍以上となり、世界最高峰レースに対するモータースポーツファンの関心の高さを証明した。
11月、待望の<F1世界選手権シリーズ フジテレビ日本グランプリ>決勝。A.セナ、A.プロスト、そして日本人初のシリーズフル参戦ドライバー中嶋悟など世界のトップドライバー26人が奏でる最高峰マシンのエギゾースト・ノートに、スタンドを埋め尽くした11万2000人は熱い声援を送った。
Hondaは2チーム4台にエンジン供給し、自国での優勝が期待されたが、勝ったのはG.ベルガーが操るフェラーリだった。しかしHondaのA.セナは2位、中嶋悟は6位入賞を果たし、この二人は、その後日本のモータースポーツ人気を牽引する象徴的な存在となっていく。
1987年  ロードレース世界選手権 日本グランプリレース
1989年  世界プロトタイプ選手権 WSPC SUZUKA JAPAN
1991年  ワールドカップ カートレース イン ジャパン

すべての世界最高峰レースを鈴鹿で

1987年には、3月の<ロードレース世界選手権 日本グランプリレース>、7月の<世界耐久選手権 "コカ・コーラ"鈴鹿8時間耐久ロードレース>、そしてF1日本GP開催の成功をもって「世界のスズカ」と称されるようになる。これ以降、鈴鹿サーキットでは日本のファンに世界最高峰の様々なモータースポーツを紹介しようと、次々と世界選手権レースを開催していく。
1989年には<世界プロトタイプ選手権 WSPC SUZUKA JAPAN>、1991年には<ワールドカップ カートレース イン ジャパン>、<世界選手権モトクロス スジャータ日本グランプリ>、1992年<FIA公認 ソーラーカーレース>などの開催によりモータースポーツの振興とファンの拡大を目指した。
これらの世界選手権レースは、後に、(株)紀文[現:(株)紀文食品]、富士写真フイルム(株)[現:富士フイルム(株)]、昭和シェル石油(株)、コスモ石油(株)の各社が冠協賛につき、モータースポーツがビジネスとしても拡大していく。
1991年  世界選手権モトクロス スジャータ日本グランプリ1992年  FIA公認 ソーラーカーレース鈴鹿

世界に羽ばたくライダー/ドライバーを
鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS)開校

SRS-J
SRS-K
SRS-F
世界最高峰レースの開催を機に、鈴鹿サーキットは、世界に通用するライダー/ドライバーの育成を目的に、1992年、鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS)を開校した。
1992年、2輪レーシングライダー育成のためのSRS-J(ジュニア)に引き続き、4輪モータースポーツの基本となるレーシングカートのSRS-K、1995年にはフォーミュラ・ドライバー育成のSRS-Fを開校、国際レーシングコースや、国際南コースをスクールの場とし、SRS-J、SRS-Kは9才からの早期キャリアを目指す。杉本五十洋(SRS-J)・中嶋悟(SRS-K・F)両校長の下、日本のモータースポーツの第一線で活躍するライダー、ドライバーを講師にむかえたこの取り組みは、海外のロードレースで活躍する清成龍一や酒井大作、フォーミュラカーレースの頂点であるF1・INDY®で活躍する佐藤琢磨や松浦孝亮はじめ、現在も国内外で活躍する多くのライダー/ドライバーを輩出している。
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