鈴鹿サーキット ツインリンクもてぎ
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2011年、モビリティランドは創立50周年を迎えました。

モビリティランド50年のあゆみ

第二章 ─ 転換期 ─ 逆境を乗り越え、総合レジャーランドへ

グランプリレースの中止、オイルショックによる耐久レース撤退など、
1960年代半ばから70年代にかけて、モビリティランド(以下ML)は、何度も経営の危機に直面することになる。
その度に危機を乗り越えることができたのは、時代のニーズに呼応し、お客さま参加型のイベントを企画するなど
創意工夫を凝らし、新たな道を切り拓いてきたからである。

1966年3月15日付 テクニランド社報臨時号
生駒テック

企業は永遠である。一時の利害に迷うべきではない

1965年開催されるはずだった第3回日本グランプリ自動車レースが中止となった。さらに世界選手権ロードレースも鈴鹿では開催されないことになった。
MLには日本のモータリゼーション発展のためにグランプリレースを育ててきたという強い自負があった。そのため、他のサーキットと「金銭条件で天秤にかけられることが許し難く、自ら撤退した」のである。その決断は、「企業は永遠である。一時の利害に迷うべきでない」という強い信念に基づいたものであった。「鈴鹿サーキット、多摩テック、朝霞テックは、単なる遊園地でもサーキットでもなく、単なる観光地でもホテルでもない。《最高の創意と技術を集めた、世界に類のない夢と科学のパノラマ》なのだ」。その言葉通り、MLは単なるサーキットや遊園地という存在から脱皮し、変貌を遂げていく。
一方で、カミナリ族問題が収束を迎えたこともあり、経営資源を鈴鹿に集約するという方針に基づき、1965年1月生駒テックが営業終了した。
カーニバルパレード
仮装コンクール少年団パレード

地域と結びついた「祭り」をつくる

グランプリレースから撤退し、それに代わる営業の柱を確立することが急務となった。若手スタッフが知恵を絞って得た結論は、地域と結びついた祭り。しかも見るだけでなく、参加する祭りだった。それが1966年から5年にわたって開催される「三重カーニバル」だ。
三重県内12市の市民たちがレーシングコースで山車を引きながら練り歩くパレード、子どもたちによる仮装大会など、様々な催し物が用意された。すべて、従業員たちによる手作りの企画だ。果たしてお客様に受け入れられるのか。このような不安を抱えたまま、「三重カーニバル」の初日を迎える。
参加者も観客も踊るジェンカ

サーキットを感動と交歓の舞台に

開園と同時に、従業員たちの不安は一気に吹き飛んでいく。園内のいたるところで、ファミリーの、カップルの、笑顔の輪が広がっていた。それが最高潮に達したのが、最終日のパレードだ。行進がグランドスタンドの前に来た時、場内の音楽がフォークダンスの名曲「ジェンカ」に切り替わり、パレードの参加者たちが肩を組み、踊り出した。それを見てスタンドの観客までもが、コースに駆け下りてきた。パレードはあっという間に「大ジェンカ大会」となり、サーキットは感動と交歓の舞台と化した。「三重カーニバル」はその後1970年まで開催され、翌年からはスズカカーニバルとして継承されていく。
鈴鹿サーキットホテルD・E棟

お客さまの自主性を尊重したホテル

『三重カーニバル』と時を同じくして、ホテル部門も拡大していく。ホテルは「お客さまの自主性を尊重する」という方針の下、運営された。観光地の旅館のような「上げ膳据え膳のサービス」ではなく、自由にお過ごしいただける開放感が大切という考えによるものである。1967年には、500人収容の修学旅行専用棟・ナイセストビレッジ(N棟)、1969年にはビレッジF棟が完成。本格的なホテル事業開始から3年余りで約1500人の宿泊体制を確立した。
N棟室内F棟外観F棟エントランス
エンジン教室鈴鹿製作所見学
テクニカルホールエンジン付き乗りもの体験

「科学と産業」を体験する新しい修学旅行を提案

宿泊の誘致には新たな試みがなされた。全国の小・中・高生を対象とした「科学と産業」を生徒に体感させる修学旅行の提案である。エンジン教室とHonda鈴鹿製作所の見学、さらにモートピアでのエンジン付き乗り物体験という、この新しい修学旅行コースは、多くの学校関係者を引きつける。誘致開始から3年目にして実施校延べ664校/12万9000人を数えるにいたった。
メキシカンゴーカート
クラシックカーファミリーカー
バギーカートテックマチック

モートピアは自分たちで創る

グランプリレース撤退を受け、MLはモータースポーツから総合レジャーランドへと進化をはかる。その中でモートピアの開発に大きな役割を担ったのが、1966年2月に設立されたテックプロダクション(現:テックプロ)である。自分たちのモートピアは自分たちで創るというコンセプトで、独自性のある乗り物を開発する事業所を立ち上げたのである。テックプロダクションは、楽しくオリジナリティあふれる乗り物を開発するだけでなく、やがてはモートピア全体のプランニング &プロデュースを担うR&D部門として成長していくことになる。さらに、その一方で一般車向けのテックマチックなどの運転補助装置の製作をおこなう工房でもあった。

(株)ホンダランドに社名変更

1968年、MLは当時の社名を(株)テクニランドから(株)ホンダランドに変更する。Hondaとの経営資源のつながりを内外に明確に示し、より積極的な営業展開を図るための施策であった。
朝霞テック

朝霞テック営業終了

1964年にオープンした朝霞テックは、交通の利便性もよいことからファミリー層を中心に人気を集めた。夏のプール営業では鈴鹿サーキットや多摩テックを上まわる動員を記録することもあったが、1973年営業終了となる。背景には、もともとこの土地の所有者はHondaであり、時代に対応して新しい開発拠点が必要になったという事情があった。現在この地は朝霞研究所となっている。
英国フェア バクパイプとハイランドダンス
フランスフェア 竹馬ダンス
オランダフェア 開幕セレモニーオランダフェア 木靴職人

オイルショックの危機を救った『ヨーロッパ各国フェア』

1973年、産油国の原油価格引き上げで石油危機が発生(第1次オイルショック)、モータースポーツに氷河期が訪れる。
レースを自粛せざるをえない状況に追い込まれ、これを乗り切るため鈴鹿サーキットはモートピアを舞台として1976年「アンデルセン100年祭&デンマークフェア」を開催する。
フェアは、これを契機としてその後5年間にわたり、ドイツ・スイス・オランダ・英国・フランスと、ヨーロッパ各国をテーマとした春の恒例催事となっていき、1979年のオランダフェアからは多摩テックでも同時開催されるようになった。
各国から招いたアーティストや職人のパフォーマンスを軸に、園内全体をテーマ国のカラーとデザインでディスプレイ。さらに物産販売、レストランでの各国メニューの提供、民族衣装を着た従業員によるサービスが展開された。まだ海外旅行が一般的でなかった当時、フェアはヨーロッパの国々の文化に触れることのできる機会として人気を博していく。外国文化へのあこがれという当時の人々の心を突いた、企画の勝利だった。
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