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2011年、モビリティランドは創立50周年を迎えました。

モビリティランド50年のあゆみ

第一章 ─ 原点 ─ メーカーとしての使命をカタチに

(株)モビリティランドは1961年、(株)モータースポーツランドとして設立された。
その背景には、当時の社会問題に対して本田技研工業株式会社(以下Honda)がメーカーとして責務を
果たすという側面と、本田宗一郎と藤澤武夫という2人の創業者が、日本のモータリゼーションの未来に寄せる、
熱い想いがあった。

1961年10月 多摩テックがオープンした

メーカーとしての責務を果たすために

1960年代初頭、公道をオートバイで暴走する「カミナリ族」が社会問題になっていた。Hondaはこの問題を解決すべく『テック』と名づけられたオートバイのためのゲレンデを全国各地に建設する構想を立ち上げる。それはカミナリ族に走る場を提供し、正しい運転マナーと技術を学ばせるというものであった。1961年10月、この構想に基づき建設された多摩テック・生駒テックが完成。モーターサイクルのスポーツランドとして営業を開始する。
多摩テック ゴーカート
エンジン教室

子どもたちにも「操る喜び」を

1962年4月には、両テックの第二期工事が終わり、自動車遊園地としての営業を開始する。遊戯物には、Honda製のエンジンを搭載した乗り物が用意された。これには、子どもたちに小さい頃からエンジンに親しんでもらい、自ら「操る喜び」を体験することで、クルマファン・Hondaファンを育てるという、藤澤武夫の思いがあった。この頃にはカミナリ族問題も収束を迎えつつあり、営業の軸足を自動車遊園地にシフト。6月に(株)テクニランドと社名変更し、新たなスタートを切る。
1964年には、“見る・聞く・試す”という思想をカタチにした「エンジン教室」を多摩テックで開始する。本物のエンジンを分解・組み立てし、実際に動かしてみるという内容で、学校団体を対象に好評を得た。まもなく鈴鹿サーキットでも開催されるようになり、やがて鈴鹿製作所見学と組み合せた修学旅行プログラムとなって大きな花を咲かせていく。
完成間近の鈴鹿サーキット

モータリゼーションの育成をめざして

テックの全国展開をめざす一方で、国際レーシングコース 鈴鹿サーキットの建設も進められた。当時の国産車といえば、今日からは考えられないほど性能が低いものだった。来たるべき高速時代に向けて、性能を向上させることは自動車業界にとって急務になっていた。そこで本田宗一郎は「レースをやらなければクルマはよくならない」という信念のもと、自らレーシングコースを造ることにした。そうすることで国産車の性能・品質向上を図るとともに、日本のモータリゼーションの発展を推し進めようとしたのである。
1962年11月 第1回全日本選手権ロードレースのスタート

鈴鹿で育った日本の自動車技術

1962年9月、鈴鹿サーキットが完成する。2カ月後には第1回全日本ロードレースが開催され、2日間で27万人の動員を記録する。翌年5月に日本グランプリ自動車レース、11月に世界選手権日本グランプリロードレースを開催。とくに四輪では、どの国産メーカーも本格的な自動車レースへの参戦は初めてという中、タイヤひとつとっても満足なものがなく、トラブルの連続であった。海外メーカーとのレベル差を目の当りにした技術者は、このレースを機に、性能向上に心血を注ぐことになる。やがて国産車の性能は飛躍的な進化を遂げていく。日本にモータースポーツの夜明けをもたらした鈴鹿サーキット。それは、のちに日本の自動車産業が世界に飛躍するキッカケをもたらしたといえるかもしれない。
国際レーシングコースを使った白バイ訓練

白バイ訓練からスタートした、交通安全教育

日本グランプリ自動車レースの開催と相前後して、名神高速道路が開通。これに伴い、高速道路をパトロールする白バイ・パトカー隊員の高速走行訓練に対するニーズが高まっていた。このような社会的背景をうけ、鈴鹿サーキットは高速走行に適応した運転技術を身につける技能訓練と指導を開始する。これが現在に続く、「安全運転講習」の始まりである。
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